さらにこちらでは
- ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』のケンスケ補完シナリオ。
このシナリオは相田ケンスケという、主人公シンジの友達が話を進めていく。
ケンスケは本編では同級生の立ち位置だが、このシナリオではかなり重要な立場。このゲームはキャラごとにシナリオが用意されており、
シナリオによっては時系列がつながっている。
このケンスケ補完シナリオのタイトルは『夢から覚める時』というなんとも皮肉なタイトル。その前にエヴァを知らない人のために簡単な設定を説明。
主人公は碇シンジという中学生で、地球を襲う謎の生命体『使徒』を駆逐するために
NERVという組織が創りだした『エヴァンゲリオン』という兵器に乗って戦う。
エヴァには詳しい設定があるが後述。モビルスーツだと思っておけばいい。パイロットは以下のとおり。
エヴァ零号機→かの有名な綾波レイ
エヴァ弐号機→惣流・アスカ・ラングレー(あんたバカァ?の人)
エヴァ初号機→碇シンジ(主人公)
エヴァ参号機→鈴原トウジ(シンジの親友)
このシナリオでは主にシンジ、トウジが絡んでくる。
『歌はいいねえ』のカヲルは専用エヴァがない。
- 最初の場面で父親と会話するケンスケ。
ケンスケの父親はNERVの職員で、好奇心が強くエヴァに憧れを持つケンスケに、
「あんなものに乗らずに大人になってほしい」と告げる。
ケンスケはシンジ、トウジと親友なので、色々と思う所もあるらしい。
父親はおそらく職員なので、かなり深い情報も知っているんだろう。場面が変わって学校。
ジェットアローンを停止させたことを会話するシンジとケンスケ。
父親のパソコンから情報を得ているケンスケ。
パイロットになりたいな~と言うケンスケに、自分はスタッフの言うとおりに戦っているだけ。
そういうのを知っているのはスタッフだけと告げるシンジ。
シンジに近いスタッフに接近して情報を得ようと考えるケンスケだった。
あわよくばパイロットになるチャンスを得ようとも考える。
- スタッフから聞き出した情報を確認するケンスケ。
そこには、とんでもない事実が書かれていた。
なんとエヴァは、パイロットの母親の魂を介して動かすのだ。
つまり、シンジの母親の魂は初号機に。アスカの母親の魂は弐号機に。トウジの母親の魂は参号機に。
それぞれインストールされている。
エヴァは念じれば動くが、それは外道な手段で実現されたテクノロジーだった。
その事をおそらく、パイロットである彼らは知らないだろうという結論に至る。更に読み進めていくと、マルドゥック機関と呼ばれる機関がパイロットを選出していることがわかる。
そしてコード707と呼ばれ、エヴァパイロットの適格者が集められたクラス。
それこそがケンスケのいる第壱中学校2-Aだった。
- 自分にも素質は十分にあると喜ぶケンスケ。
しかしそこで思い至る。
自分の母親の魂が本当にあるとしたら…
自宅で父親を問い詰めるケンスケ。
「だってパパ、パパは何も教えてくれないじゃないか。
ママは…ママは死んだ後どうなったの?エヴァのパーツになったの?」
動揺する父親に、自分で調べて知ったことを教える。
最初は憧れやかっこいいから、という理由だったが、今はNERVが自分の母の魂を保管しているとしたら、
それを他人のものにしたくない、だからエヴァのパイロットになりたいというケンスケ。
真実を知ったことでただの好奇心から随分と成長するのだが、
父親は黙りこんでしまう。父親は母親が助からない矢先、NERVによって魂を捧げるように言われた。
葬式の時にも遺体はなかったらしい。
しかし、将来ケンスケがパイロットになる可能性を告げられ後悔する父親。
戦って死ぬようなことがあったら…と怯えながら暮らしていたのだ。
「あんなパイロットになんかならないほうがいいんだ」と語気を荒げる父親。
「じゃあ、俺の友達は不幸だっていうの?一緒に戦って助けてあげる事はできないの?」
パイロットにならずとも支えてあげる事はできると言われる。
(ここで分岐、諦めるか諦めないかの選択がある)
- 諦めないを選んだ場合。(『諦める』だとシナリオクリア出来ない)
使徒が襲来。
初号機と参号機が使徒を殲滅する。
しかし、参号機パイロットのトウジは殉職する。担任の教師はそれを伏せ、「事故に遭い病院へ運ばれたが死亡」と告げる。
(機密情報に触れるので、一般人の生徒には告げられない)
授業を切り上げ、放課後に葬儀に参列するケンスケたちクラスメイト。
葬儀の場でアスカと会話するケンスケ。
仲間の死にショックを隠せないのか、悲痛な表情のアスカ。
せめて親友のケンスケには
それとなく真実を伝えようとするアスカに、既に使徒との戦いで死んだことを知っているというケンスケ。
「あいつ…俺たちを守ったんだ」
トウジの死でパイロットになりたい、という気持ちに恐れがまじるケンスケ。
彼がパイロットに選ばれた際、ひどく羨んだことを家で詫び、悔み悲しむ。
(ちなみにトウジもシンジと同じで『なりたくてなったんじゃない』
半ば強制的に選出されたパイロット。
この二人は終始使命感などで戦い、エヴァに喜びや意味を見出さない)
そんなケンスケを、「絶対に守る、ママとの約束だから」と励ます父親。
- しかし、ケンスケにNERVから赤木リツコが会いに来る。
なんとエヴァンゲリオンのパイロットになることを迫るリツコ。
そして父親が事故にあったことを知らせる
(あまりにもタイミングが良すぎるので、偶然とは思えない。
反対するであろう父親の口を塞ぐためにNERVが仕込んだ事故の可能性が高い)
憧れているとき。
夢見ていた時が幸福だったと、複雑な思いを抱くケンスケのモノローグ。
すべてを知ってしまった、そして親友も亡くした今、彼はもう憧れていただけの頃には戻れない。
恐れを抱きながらも戦うしかなくなってしまった…というもの。
エヴァはパイロットの母親の魂をインストールすることによって、
念じるだけで動かせるようになっている。
また、機体が受けたダメージはパイロットに跳ね返る仕様なので、
ガンダムみたいに普通の顔して戦うなんてのは無理。
ちなみにシンクロ率によって痛みの度合いは変わる。
トウジはかなり高め、シンジは普通よりやや高め程度だったと思う(このゲームでは)
ちなみに、このゲームでケンスケを使って戦うことはない。
他ゲームではケンスケがパイロットだが、そのシナリオも後味が悪いのでいずれ書く。
最初にエヴァンゲリオンを観たとき、一話に「国連軍仕様の74式戦車」が使徒迎撃として大部隊で出てきて、「おいおい、2015年にもなって74式は無いだろ」と思ったが、実際に2015年になった今でも普通に主力だった。
約10年ほど前、ハワイでのコンベンションに参加した時に、エヴァンゲリオンの海外での人気ぶりを初めて目の当たりにした宮村さん。仕事を通じて、海外の人とのつながりも持つことができたそうだ。
「その時初めて、英語版で私の役をやっているティファニー・グラントさんに会ったら『実は、優子にずっと会いたかったの。惣流アスカ・ラングレーは、前のエンディングではとてもかわいそうな終わり方だったから、演じていてもとても辛くて。その気持ちを話して分かってくれる人と会いたかった』って言ってくれたんです。
私も、実はアスカを演じていた時はとても重いものを引きずっているような気持ちでした。『演じる者としての私の気持ちを同じように分かってくれる人が、地球の裏側にいたんだ!』と、ものすごく心強く感じて、嬉しかったです。それ以来、ティファニーさんとはずっとお友達付き合いをさせてもらっています」
モグ波はオレの心を捕らえて放さないのだが、元ネタの綾波とは何か?全く不明なのだった。ググってエヴァンゲリオンのキャラだということを知った。性格はハルヒの長門有希に似ているらしい。綾波は知らなくてもモグ波は楽しめるので、そのままにしておいた。
失われた90年代には、「オトコノコ」が自信を失い、新世紀エヴァンゲリオンの碇シンジをはじめとする、戦うことができない主人公が現れたって話は、もう手あかに塗れているわけだ。さらには、アニメ的に言ってしまえば、祭谷一斗さんが指摘しているように、(http://maturiyaitto.blog90.fc2.com/blog-entry-273.html)、ワタル、ラムネといった熱い主人公たちが跋扈していた時代が、クレヨンしんちゃんの少し前にあった。この熱さも、今にしてみればただの空元気で、どうにかして「未来を担う少年たちには自信を失ってほしくない」という悲鳴にも似た願望だったのだろうと思う。
でも、野原しんのすけは90年代に生まれた、しかも90年代に自信を失っていたはずの男性作家によって生み出された「戦う主人公」だった。
野原しんのすけが戦っていたのは誰かといえば、それはいわゆる「良いもの」とされるものだった。それはPTAだったり、教委だったり、つまりは自信を失い、子どものような弱い存在にしか強く当たれなくなっていた極めて一般的な大人たちのことだ。ちんこを振り回し、ケツを見せびらかす。
そんな野原しんのすけは、大人が注意しないといけないのだが、その大人は野原しんのすけによって「みさえ」「とーちゃん」という威厳の欠片もない存在にされてしまう。そして、蛮行を繰り返す。野原しんのすけは徹底的に一般的な大人と戦い、「バブルを経て、すべてを失ってしまったお前たちに威厳なんて残ってないんだよ」と叫び続けた。それを認めないために、そしてまだ威厳が残っていると主張したいがために、大人たちはクレヨンしんちゃんという作品を罵倒し続けた。でも、結局はあまりにも長く続いた失われた時代と、エヴァのような威厳を失ったことを肯定するような作品により、大人たちは自分たちがすべてを失ったことを認めざるを得なかった。子どもを、自分たちより弱く優位に立てる相手ではなく、共同体の中で暖かく育て未来を作っていくためのものとしてとらえるようになった。少子化が大きく騒がれ始め、年金の心配もされるようになった頃、クレヨンしんちゃんは家族愛を描いた映画として、世の中に広く受容されていった。核家族の代表として、自信を失った情けない大人と、未来のために勇気を振り絞る子どもと、その子どもの決意を守るための大人という、極めて時代的な家族愛のもとで。
野原しんのすけの戦いは、ある意味では蚊帳の外で叫び続けているだけで、気づいたら敵が変化していて形としては勝利したように見えるものだったのかもしれない。だが、彼は大人が、オトコノコが自信を失う中、その現実を受け入れさせるために戦っていたことは確かだ。
